宮澤が総辞職し、自民党が立党以来初めて下野することとなった。政権は細川護煕を首班とする7党8会派の連立内閣である。
宮澤は政権から滑り落ちると同時に、自民党総裁も辞任し、新総裁は「日本一の臆病者」河野洋平になった。
★何と驚くことに、その当時、河野は宏池会所属だったのだ。
河野洋平は、私が小学校にあがるころ死んだ政治家で、今でいう二階俊博の様な「利権屋型」の政治家だった。
河野派を擁していたが、死後、派閥は中曽根康弘に相続された。
洋平は、父の死後、地盤を継いで政治家となり、中曽根派に入った。
しかし、思うところあり「新自由クラブ」を結成し自民党を飛び出す。
一時は人気が有ったが、所詮、刹那的なものに過ぎず、ブームが過ぎると解答し、メンバーはそれぞれ、自民党に復党した。
河野は、宏池会に入れてもらった、「親中的」なところや「リベラル」な点が、宮澤と凄く波長が合ったのだろう。
1998年、宮澤の後継を巡って、加藤紘一と対立、圧倒的多数の加藤派に破れて、宏池会6代目の会長に加藤紘一が成る。
★すると、河野は「反加藤色」を強め、「河野グループ」を結成して、宏池会を離脱した。
この時、河野について行ったのが、麻生同和太郎以下、5人だけだった。
≪自民党派閥の会長になるための条件≫
① その派閥の「生え抜き」であること。
② 自民党をでたり入ったりしていないこと→石破茂。
以上のように、麻生太郎が、一度「宏池会」を離脱したことは事実であり、「大宏池会構想」が万が一成立しても
私は、無いと思っているが、麻生同和太郎に、会長になる「正統制」はないのが事実である。
*写真は売国奴、河野洋平