剛腕の田中六助が、「糖尿病」に命を奪われると、戦争は終結し、棚ボタで宮沢喜一が5代目宏池会会長に就いた。1985年1月の事であった。
当時は中曽根内閣、中曽根自身は「風見鶏」「藪からし」と呼ばれ、党内でも嫌われていたが、宮澤はその中曽根からも嫌われるという稀有な存在であった。
宮澤が嫌われた理由、中曽根「私たちは旧制高校で体育会で先輩に苛められる経験もしてきたが、宮澤はそれすら経験していない」
田中角栄「彼は秘書官だ。政治家ではない。」
★よくも嫌われたものである。中曽根に嫌われ、後継者は1987年の「中曽根裁定」で竹下登にいき。
その後は、竹下がキングメーカーになる。
宮澤がやっと総理になれたのが、6年後の1991年だった。
私が独身時代に愛読していたPRESIDENT(プレジデント)と言う雑誌で、1984年ごろの記事で
「ニューライト(新保守)の旗手、宮澤喜一」と言う特集があった。執筆者は残念ながら、記憶にない。
但し、記者は、「次世代の総理総裁候補」として、強く宮澤を押していた。
★その一番の理由が「大正8年生まれ(1919年)なのに、「マルクス主義」に感染していないところが凄い」並みのエリートではない」と言うことだった。と言うのは、宮澤の世代の旧帝国大学の学生は、当時「マルクス主義」に感染し、共産党に入党するエリート大学生が多かったからだ。
例えば、中曽根康弘の盟友で、読売新聞のドンのナベツネこと渡邉恒雄は、東大の学生の時に、共産党に入党している(後転向)
その記事を読んだ時は「ふ~ん」なるほどな~と判ったようなわからない気分だったが、数年前、宮澤が部落民だと知った時に一気に謎が解けた。
★当時、マルクス主義に傾倒した学生たちの多くが、地主の息子であったり、裕福な家庭の子弟が多かった。
だから、小作人に同情したり、朝鮮や台湾の官吏となって親についていった子弟は、現地の人間に同情したりして、「マルクス・レーニン主義」に
はまっていったのだ。しかし、ほとんどがはしかのように、いつの間にか快癒して転向してしまう。
★逆に部落民の子弟は、「自分の階級から脱出するのに必死」例えれば、アイスバーンのように凍結した坂道をつるつる滑るゴム靴で走って駆け上るようなもの。
「マルクスレーニン主義」に関心を持つ余裕すらないだろう。
*写真は「中曽根裁定」で宮澤を忌避した当時の中曽根康弘、左、真ん中はET(笑)
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