1980年6月の総選挙中に総理の大平正芳が心筋梗塞で急死するも、国民の同情を買い自民党は圧勝。
野党の提出した「内閣不信任案」に同調した反主流派の福田派、三木派は総裁候補を出せなかった。
中曽根康弘は、不信任案には反対したが、田中角栄の信用を得られず、宏池会の有力候補、宮澤喜一は角栄に嫌われて、そもそも対象外だった。
田中派自身も、ローッキード裁判が継続中であり、総裁候補を出せない。
そこで、田中六助が行動力を発揮して、岸信介元総理に根回しして、「党内抗争の終結」を目指して、鈴木善幸を首相に擁立する。
宏池会としては、初めての部落民以外の会長であり、総理となった。
★ちなみに、田中六助は、新聞記者時代に岸総理にも可愛がられ、娘の洋子さん(安倍総理の実母)と結婚したがったが、安倍晋太郎氏に破れた過去が有る。
1951年(昭和26年)のサンフランシスコ講和会議に全権随員として参加するなど、秀才官僚として早くから将来を嘱目されていた宮澤喜一に対し、
田中六助が頭角を現したのは1970年(昭和45年)の「大平クーデター」によってである。このとき宏池会会長を前尾繁三郎から大平正芳に交代させた中心人物が田中であった。
こうして大平側近となった田中は、1978年(昭和53年)の第一次大平内閣で内閣官房長官として入閣、スポークスマンとして「おしゃべり六助」の異名を取った。
1980年(昭和55年)、大平が現職の総理・総裁のまま急死するが、田中は後継総裁として、宏池会代表に就任した鈴木善幸を担ぎ出す。岸信介に根回しをし、鈴木内閣成立の立役者となった。
鈴木内閣実現の功労により、田中は通商産業大臣に就任するが、内閣官房長官に起用されたのは宮澤であった。こうして宏池会の後継者をめぐり田中と宮澤のあいだで競争が勃発する。
その後、鈴木善幸と宮沢が縁戚関係を結ぶ一方で、田中は中曽根康弘に接近していった。
1982年(昭和57年)中曽根総裁のもとで、田中は政調会長をつとめる。宮沢との競争も加熱し、宮沢が派閥横断的な議員グループ「平河会」
を主催すれば、田中も「新世代研究会」を結成するなど張り合った。ロッキード判決を受けた1983年12月の総選挙で自民党が後退したあとには、
幹事長の二階堂進が交代を余儀なくされたが、その後任には宮澤と田中の名が取りざたされ、最終的に田中が就任している。
しかし田中は幹事長就任後、病にたおれ1984年(昭和59年)東京女子医大病院に入院、1985年(昭和60年)1月に糖尿病の悪化に伴う心筋梗塞で死去。
1986年(昭和61年)に宮澤が宏池会会長に就任したことで、「一六戦争」は終わりを告げたのである。
*写真は宏池会第四代会長の鈴木善幸・・・息子は宮澤とは親戚筋に当たる
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