1965年8月、池田勇人が喉頭がんで死去すると、池田の大蔵省の4年後輩で、腹心の前尾繁三郎が、宏池会の2代目の会長に就任した。
総理の座は、前年11月に、池田は佐藤栄作に禅譲している。
京都府選出の前尾と言う人は、後に「政界の三賢人」と呼ばれるほどの教養人であり、人格者であった。
しかし、「権力抗争」は望まず、「派閥を政策集団」と位置付ける人だった。
それに比べ、一世代若い、大平正芳や、腹心の田中六助等は、「派閥は政権獲得のための集団」ととらえており、不満が溜まっていた。
加えて、「人事の佐藤」と言われた、老獪な佐藤栄作に前尾は翻弄され、自民党第二派閥の宏池会にはフラストレーションが臨界点に溜まっていた。
1970年、佐藤栄作から、次の内閣改造では「宏池会」を優先するという言質を取り、佐藤4選を支持したが、その後、佐藤は内閣改造を中止し、
前尾は、政界で生き恥を晒すと同時に、派内の求心力を失った。
不満が爆発した、大平グループは、腹心の田中六助が、動き、前尾を強引に会長の座から引きずりおろし
第三代目宏池会会長に大平正芳を就任させた。
これを「大平クーデター」と言う。
*写真は派閥の長として求心力を維持できなかった前尾繁三郎
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