元高官「GHQや、マッカサーの皇室観を一変させる出来事が起きたんだ」
私「それは、何ですか?」
元高官「1946年2月から1949年まで、営々と励まれた「昭和天皇の全国行幸」だよ。先帝様に助言したGHQの幹部には意地の悪い意図が有り、
身に寸鉄も帯びず、国民大衆の中に身をさらしたら、必ず「共産主義者」か「朝鮮人」に殺されるだろうという期待が有ったんだよ。
現に、戦前の摂政の宮以降、明確な暗殺未遂があった。無政府主義者の難波大助による「虎の門事件」や朝鮮人テロリスト李奉吉(イ・ボンギル)による「桜田門事件」だ。
ところが、この3年間の全国行幸では、不祥事は全く起きず、国民たちから歓迎されたんだ。
これは欧米も含め、「世界史上の奇蹟」とも言われた。しかし、マッカーサー以下GHQには衝撃を与え、大きな危惧をもたらせた。
それは、日本人は、昭和帝の「玉音放送」で「一億総玉砕」は止めたが、何十年か後に新しい天皇が号令をかければ、また1億国民は天皇のもとに一致団結して
アメリカに逆らうのではないか?と言う恐怖にも似た危惧だったんだ。
そこで、私は、マックはその「危険性」を飼い犬だった吉田茂と話し合ったと睨んでいる。
在任中マッカーサーは「皇室は3代持たない」と言う発言を残している、その後彼は、トルーマン大統領に解任され1951年4月に、日本を去った。
マッカーサーの威光をバックにした吉田は、巨大な「ハロー・エフェクト(後光効果)」を失い、傲慢さとワンマンぶりから民心が離れて1954年に総辞職した。」
私「それと、「皇室三代絶家説」とはどうつながるんですか?」
元高官「吉田茂の政治資金源、スポンサーは西武グループ総帥の堤康次郎だった。そして堤の商売上の盟友は、群馬館林の醬油業者で皇后様の祖父の正田貞一郎だった。
時系列に把握してもらいたいんだけど、吉田茂は1946年(昭和21年)5月に政権を取り第一次吉田政権を作った。
面白いことに、同年1946年7月に正田貞一郎は貴族院議員に勅選された。推薦者はその時の総理の吉田以外にはいない。
更にポイントは、貴族院は翌年1947年5月に廃止された。廃止が決まっている貴族院にぎりぎりセーフで無理やり押し込んだんだな。
ここまで言えば、わかるだろう。君の言葉で正解を言いなさい(笑)」
私「正田美智子入内の複線ですね。祖父が部落民では格好がつかないから、「箔付け」をしたんですね。おまけに、正田美智子は、母正田富美と堤康次郎の不倫の子
ですから、堤康次郎も自分の娘を皇太子妃にしたいという宿願が有ったでしょうし。それにしても吉田茂の遠大な「謀略」ですね。驚きました。」
元高官「おまけに、正田貞一郎は1956年(今上陛下と美智子のテニスコートの出会いの1年前)に藍綬褒章まで受賞している。その7年前に日清製粉は「独禁法違反」で司直の捜査を受けている。客観的に見て、受賞資格は無いはずだ。
しかし、これも吉田の強い意向だったのだろう。吉田は2年前に政権の座から降りているが、「長期政権;7年」の元首相として党内に隠然たる勢力を持っていたからね。」
私「吉田茂としては、万世一系の皇統を「根から腐らせるには「部落民の娘」を皇太子妃にぶち込むのがベストだと考えたのでしょう。
しかも、神道も排除する一神教のキリスト教徒ですからね。吉田自身もクリスチャンですし」
(続く)
*写真は吉田茂と堤康次郎(堤美智子の実父)の親密な関係を示す写真、一緒に写真に納まる池田勇人、佐藤栄作はともに総理になり「保守本流」を形成する。
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