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Channel: 伏見顕正(あきまさ)の「時を斬るブログ」
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【麻生の乱⑭】宏池会の歴史、「加藤の乱」勃発、そして「宏池会」の終わり、①無限拡散

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派閥を継承し総裁候補としての実績を着々とあげつつあった加藤紘一と山崎拓。

総裁候補の登竜門として1999年9月の自民党総裁選挙に出馬しましたが事前予想通り現職総裁の小渕恵三に敗れました。

が、あくまでも登竜門のつもりだった加藤・山崎に対し、無投票での再任を願っていた小渕は2人の総裁選出馬自体に激怒したのです。

また、加藤が小渕に政策論争を挑んだことも小渕の逆鱗に触れた。温厚な人柄で通っていた小渕だが「あいつは俺を追い落とそうとした」と

加藤・山崎派を徹底的に干していきます。非主流が干されることは政争の常ですが小渕の対応は常軌を逸していました。

小選挙区制導入により、官邸の権力が強くなっており、非主流派に追い込まれた加藤派と山崎派の立場は一層厳しいものとなったのです。

当時の加藤は改革派のイメージが強く、首相になってほしい政治家ランキングなどにも上位に名前を出していました。

また党内第二派閥で保守本流の宏池会会長として総裁候補一番手と認識されていました。

しかし、非主流派で干され続け、活路が見出せない中、小渕首相が急死しました。

学歴や、政界でのキャリア、第二派閥の長と言う自負から、次は当然時分だろうと確信していた加藤でしたが

いわゆる五人組(五人組

• 森喜朗幹事長(森派)

• 青木幹雄内閣官房長官(小渕派)

• 村上正邦参院議員会長(江藤・亀井派)

• 野中広務幹事長代理(小渕派)

• 亀井静香政調会長(江藤・亀井派)

による「密室非公開会議」で森総理が誕生する。・・・「私生児総理」と言われた。

小渕再選前には、加藤は政界ではポスト小渕のNo.1候補と衆目一致するところであった。

しかし、当時の加藤は、小渕派(旧竹下派・田中派)に担がれる形での首相就任を拒んでいた。

宮沢内閣の竹下派(金丸)影響下の政権二重構造への反発などからである。

しかし、自身の理想とする首相形態を求めすぎた為、竹下派の疑念を招き就任が云わば先送りにされていた。

森との順番的に遅れをとった加藤の焦りが極まる一方、森内閣は、神の国発言、中川秀直官房長官のスキャンダルによる辞任などで、

内閣支持率は低迷を続け、不人気がピークに達していた。

★私は学生時代に羽田空港で森喜朗の実物を見ましたけど、風貌がもろ「その筋の人物」でした。

国民の支持が低い森内閣のままで2001年参院選に突入すると自民党が惨敗することが予想され、参議院過半数割れ(ねじれ国会)も懸念されていた。

一時は執行部も加藤・山崎を主流派に取り込もうとし、森首相は前回人事での加藤派・山崎派の要望だった小里貞利の総務会長起用や

保岡興治の閣僚入りを実現させたが、森との経済・財政政策が決定的に違う加藤にとってはそれは自らの人気を下げる行為にしかならず、森とは距離を置いていた。

山崎は政界入り後から加藤の盟友であり、政権構想もあくまでも加藤との連携が大前提であり、先に加藤、次に山崎という考えであり、

とことん加藤について行くつもりであった。また、当時の状況ではますますその道しか打開策がなかった。

*写真は急死した小渕恵三総理。危篤中の入院写真を写真誌にリークしたのは創価信者の看護婦だと言われている。

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