元高官「1987年9月、膵臓のバイパス手術を終えて12月に公務復帰した先帝様だが、再び入院する。当初は癌とは公表されなかったが
総理の竹下登から「癌であり回復の見込みがない」ことを知った明仁と美智子はクーデターを決行する。
1988年4月、先ず、富田朝彦宮内庁長官を更迭、そして「本丸」の徳川侍従長を遂に更迭。そして、後任に宮内庁次長の山本悟を就任させた。
山本の侍従長就任は、卑劣な皇室の慣例破りであった。
何故なら、後任の侍従長は、侍従次長が就任するのが、「掟」であり、現に徳川侍従長は、侍従として終戦の詔勅にも関与し、52年間も
侍従職にあったのだ。
しかも、昭和天皇が亡くなってから、「オモテ」=宮内庁長官、「ウラ」=侍従長を変えるのが筋なのに、先帝様の崩御は翌年、1989年の1月である。
徳川侍従長の部下の侍従次長を昇格させなかったのは、「昭和天皇色」を一掃したい明仁と美智子の「復讐心」に違いあるまい。
そして、そのクーデターを黙認し、裏で支えたのが時の総理の竹下登である。
政治家としての竹下には「前科」があった。総理になる前の1978年12月の現職総理の福田赳夫と大平正芳が総裁選を争った。
その時の自民党総裁選から「自民党員」による投票を導入することになっていた。
その時、竹下は、金庫に厳重に保管されていた「党員名簿」を盗み出し、それを元に、大平を支援する田中派は「秘書軍団」を大量投入して
「党員票」を押さえ、事前の予想を覆し、大平が逆転勝利した。
このように、竹下登は「御金蔵破り」であり、朝鮮盗賊の小和田恒と特技がよく似ている。選挙区は日本海側だし、「在日」の可能性が有る。
私「先帝様が、覚悟を決めたとおりになりましたね。逆に、明仁と美智子のクーデターは、総理が竹下登だから、成功したのでしょうね」
元高官「その通り、残念だがね。そして先帝様崩御後、喪が明けて、いよいよ皇位継承と言うときに、先帝様の遺言が有るという金庫
を東宮職員が明けようとしたとき、「触るでない(怒)」と香淳皇后が身を挺して立ち塞がった。
これで、「昭和天皇の御意志」を確認できぬまま、皇位継承順位のまま、明仁が機械的に即位したが、「偉大なる先帝様」の了解かどうかは
確認できぬままの、「正当性」に疑念が残る明仁の即位となった。そして、「立后会議」は遂に開催されず、美智子は皇后に成れなかった。
しかし、朝日新聞は、「国民の無知」を良いことに、美智子を「皇后」と呼び、「昭和天皇から「側室」は置かないことにしたのだから
奥さんは一人と言うことで、皇后でよいのだ」と言う詭弁を展開し、「皇室典範脱法皇后」を国民の脳に刷り込んだ。
昭和天皇は「即妾制度」を廃止したとWikiなどに書いてあるが、私は事実上は違うと思う。
何故なら、「女官」の勤務条件を「未婚女性の住み込み」から「既婚女性で自宅通勤」に変えただけであり、既婚女性でも「手を付ける可能性」は
完全に排除できないと思う。だから、皇室典範に「立后会議」が残っているのだと思う。
そして、奇しくも2000年6月、昭和天皇を裏切った竹下登は、76歳先帝様と同じ膵臓がんで10歳若くして死んだ。天罰であろう。
*写真は先帝様の呪いで76歳の若さで死んだ竹下登。
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