伏見様及び読者の皆様:
御世話になります。今月の初めから、新規のビジネスで来日中のヨーロッパ人とのアテンドが続いています。
それで、奇妙な接点がパソコンで繋がりました。私がサラリーマン時代に遭遇した欧米人(特に、ヨーロッパ人)の
大体10人中6人が東芝のノートブックパソコンを使っていました。約60%の使用頻度。その当時、私は富士通又は
アップルのパソコンを使用で、現在はNECのパソコンを外出時に使用。今日で、3人目になるヨーロッパ人もこれまた、
東芝のノートブックPCを使用。理由を訊くと、値段も手頃で使い易いからと。ウ~ン?何か別の理由でも?
実は、サラリーマン時代に奇妙なリクエストがお客さんからありました。それも会社のカスタマーサービスのセクションへ直通。
時代は、1990年代前半。ギリシャのピレウス港(最近、中国人が買収した港)向けにパソコンを40フィート・コンテナで輸出したい。
但し、そのパソコン(東芝製の機種まで指定)を日本で購入して頂きたいとか。総出荷数は、4千7百台。
総コンテナ数は、パレット積みをしなくても軽く20本は超える。勿論、購入金額も膨大になるハズ。
その当時、課長だった私は、そのリクエスト主を確認すべく、横浜に急行。場所は横浜市鶴見区のかなり怪しい場所。
近くに、ファッション・ヘルスや風俗店も多数。雑居ビルの一角にその会社はありました。
社名は、ワールドとインターナショナルが付く朝鮮系の会社。朝鮮人が出てくると思ったら、なんと中国人。
今、思うと中国の朝鮮族かしら。英語も聞き取り難いし、日本語もオカシイ。だから、カスタマーサービスは、
私にメモを残したのか等を考えている時―アタマに疑問が閃きました。「実際の荷受人・輸入者(actual consignee/importer)」は誰なんだ」と?
そう、この会社は只の第三者でクッション・マン(諜報界の隠語で、末端エージェントの意味)―NOTIFY PARTY/CUSHION MANと見抜いた。
バレバレ。まるで、舛添の第三者機関と同じ役割?
そしたら、想像を絶する回答。その中国人曰く、「戦争の犬たち(The Dogs of War)」とか。つまり、有事の際、兵士たちに使われること。
フォーサイス顔負け。これから、約9ヵ月後にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992年~1995年)が勃発。
勿論、関わったらヤバイことになると直感できたので、帰り際に「調査のために時間をくれ(Give some time to check」でお終い。
今でも思うことーこのパソコン4700台は中国系の船会社を通じて、日本からギリシャ・ピレウス港に輸出された。
だから、アメリカ人やカナダ人は兎も角、ヨーロッパ人は東芝製のパソコンを使用する者が多い。
その理由:
①紛争時にヨーロッパ各国から集結した傭兵(意外と、スイス人やフランス人が多い)が戦利品として本国に持ち帰った
②取材に来た各国のジャーナリストの目に焼き着いた
③紛争調停に動いた各国の政治家や役人が興味を示した等が考えられる。従って、東芝のパソコンは、
宣伝広告費がほぼゼロで、ヨーロッパ各国で普及したモノの一つに数えられるのでは?
なお、1990年代初頭の湾岸戦争にも実は、日本製のあるモノが大量に輸出された。ビンゴの方には、座布団5枚ではなく、解答を。
これは私が船積をしたから、明確に記憶している。その名は、コンドーム。用途は、多国籍軍兵士たちの避妊防止やポルノ鑑賞ではなく、
戦車の主砲にコンドームを被せた。砂埃をシャット・アウトするため。
では、片目のダヤン
≪管理人感想≫
いつもながら非常に興味深いお話でした。私もピンとくるものが有りました。私の勝手な推測で、寄稿者様には確認していませんが、
1990年代初頭、東芝は、非常にユニークなノートパソコンを開発しました。
私の記憶に間違いが無ければ、商品名は「ダイナブック」当時は、ラップトップパソコン(膝の上に乗せて、操作するの意?)と呼んでいました。
「売り」は、何よりも「頑丈さ」と「衝撃に耐えうる性能」、似た物の多かった日本メーカーのノートPCの中では、
「商品の差別化」に成功した秀逸なマーケティングだと思いました。
東芝が、そこまで狙ったかどうかはわかりませんが、「頑強さ」故、在日米軍や、軍関係者に評判がよく、かなり台数が出たと記憶しています。
ダヤン氏が言うとおり、「傭兵」にとっては、もってこいのノートパソコンだと思いました。
私の記憶に間違いが有ればご指摘ください。
追記;今ネットで調べたら、東芝は、未だ「ダイナブック」ブランドで新製品を売り出していますね。
とっくに撤退したかと思ってました。東芝関係者の皆様失礼いたしました。
ダイナブック (東芝)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ダイナブック(DynaBook、2003年からdynabook)は、東芝クライアントソリューションが製造し、
東芝コンシューママーケティングが販売するパーソナルコンピュータの日本でのブランドである。
1989年に発売されたJ-3100SSから使用された。
歴史由来
ブランド名は、アラン・ケイの提唱した「ダイナブック」を意識し目指した[3]ことに由来する。
「ダイナブック」はアスキー(現・KADOKAWA)が取得していた商標だった。
当時は「DOSベースのただのノートパソコンにダイナブックという名前をつけるとは何事か」との批判もあったが、やがて東芝のブランドとして定着した。
ラップトップPCの開発
ラップトップ型 T-1000(1985年)
ポータブルパソコンの黎明期、東芝では1985年に当時としてはコンパクトなIBM PC互換機のラップトップPC第一弾、
T-1000(重量4Kg)を輸出専用モデルとして発売した。
欧米市場でのラップトップPCの成功を機に、東芝は本格的にPCハードウェア市場へ参入した。
1987年には世界初のハードディスク(10MB)搭載ラップトップ型パソコンであるT-3100を発売し、
その日本国内向けがJ-3100である。ラップトップ型で培った小型化への技術の進歩は、
その後に登場するノートブック型パソコンDynaBookシリーズへの布石となった。
小型ノートパソコンの登場
ダイナブック初代のJ-3100SSは、20万円を切る低価格とそれまでのラップトップPCより小型軽量な筐体で注目を集め、
「ブック型PC」(後のノート型PC)という新ジャンルを普及させた。
アーキテクチャ的にはそれまでのラップトップ型J-3100シリーズ同様にIBM PC互換で、独自の日本語表示機能
(画面解像度は640x400 ピクセル、80桁x25行)を追加したものであり、英語モードではIBM PC用ソフトウェアが実行できた。
いわゆるPC/AT互換機ベースであるが、初代は正確にはPC/XTベースで、グラフィック(英語モード)はCGA上位互換、
内部バスはXTバス(8ビットISA)であった。MS-DOSでコンベンショナルメモリとして使用可能な640KBのメモリの他に、
RAMディスクとして使える1.2MBの拡張メモリを搭載した。ハードディスクを持たないとはいえ、
日本語環境とテキストエディタ、通信ソフト、コンパイラなどを外部メディアに頼る事なく携帯できるという、
ノートパソコンに求められるスペックを十分に満たしたバランスのとれたマシンであった。
サイズの縮小に努力が払われ、フロッピーディスクドライブは25.4mmの厚さがあった従来品を、
18mmまで薄くすることが目標とされ、また、キーボード、液晶画面、その他筐体内の密度の高い実装について試行錯誤が繰り返された。
1991年に東芝はOADGに加盟し、ダイナブックも独自の日本語表示機能から、純粋なPC/AT互換機(いわゆるDOS/V)に移行し、
キーボード配列もOADG準拠の配列に移行した。ノートPCに必要な部品の多くを自社またはグループ会社で開発生産しており、
新開発の部品を用いたインパクトある製品を他社に先駆けて発売出来ることが強みであった。
1990年代後半の機種では、自社開発によるBIOS、チップセットをはじめ、メインメモリー、ハードディスク、
光学ディスクドライブ、液晶パネル、バッテリーのセルなどの部品が東芝またはグループ会社の製品で構成されている製品もある。
ノートPCに最適化したチップセットの開発で培った電力制御技術を活かして、
インテル、マイクロソフトと共に電源管理の規格ACPIの策定にも当初から参加した。
東芝は1994年から2000年までノートPC世界シェア7年連続1位を獲得した。
2006年BCNランキングにてPOSデータ集計セールスナンバーワン・ベンダーを選ぶ第8回「BCN AWARD 2007」
実売数ノートPC部門1位[5]を初受賞するなど、日本国内ノートパソコン販売シェアも堅調であった。
2009年現在の世界PC販売ランキングは、HP、エイサー、デル、レノボに次いで東芝が5位である(出荷台数ベース、IDC調査)。
*写真はダイナブック、第一号モデルとなったT-1000(1985年製)
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御世話になります。今月の初めから、新規のビジネスで来日中のヨーロッパ人とのアテンドが続いています。
それで、奇妙な接点がパソコンで繋がりました。私がサラリーマン時代に遭遇した欧米人(特に、ヨーロッパ人)の
大体10人中6人が東芝のノートブックパソコンを使っていました。約60%の使用頻度。その当時、私は富士通又は
アップルのパソコンを使用で、現在はNECのパソコンを外出時に使用。今日で、3人目になるヨーロッパ人もこれまた、
東芝のノートブックPCを使用。理由を訊くと、値段も手頃で使い易いからと。ウ~ン?何か別の理由でも?
実は、サラリーマン時代に奇妙なリクエストがお客さんからありました。それも会社のカスタマーサービスのセクションへ直通。
時代は、1990年代前半。ギリシャのピレウス港(最近、中国人が買収した港)向けにパソコンを40フィート・コンテナで輸出したい。
但し、そのパソコン(東芝製の機種まで指定)を日本で購入して頂きたいとか。総出荷数は、4千7百台。
総コンテナ数は、パレット積みをしなくても軽く20本は超える。勿論、購入金額も膨大になるハズ。
その当時、課長だった私は、そのリクエスト主を確認すべく、横浜に急行。場所は横浜市鶴見区のかなり怪しい場所。
近くに、ファッション・ヘルスや風俗店も多数。雑居ビルの一角にその会社はありました。
社名は、ワールドとインターナショナルが付く朝鮮系の会社。朝鮮人が出てくると思ったら、なんと中国人。
今、思うと中国の朝鮮族かしら。英語も聞き取り難いし、日本語もオカシイ。だから、カスタマーサービスは、
私にメモを残したのか等を考えている時―アタマに疑問が閃きました。「実際の荷受人・輸入者(actual consignee/importer)」は誰なんだ」と?
そう、この会社は只の第三者でクッション・マン(諜報界の隠語で、末端エージェントの意味)―NOTIFY PARTY/CUSHION MANと見抜いた。
バレバレ。まるで、舛添の第三者機関と同じ役割?
そしたら、想像を絶する回答。その中国人曰く、「戦争の犬たち(The Dogs of War)」とか。つまり、有事の際、兵士たちに使われること。
フォーサイス顔負け。これから、約9ヵ月後にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992年~1995年)が勃発。
勿論、関わったらヤバイことになると直感できたので、帰り際に「調査のために時間をくれ(Give some time to check」でお終い。
今でも思うことーこのパソコン4700台は中国系の船会社を通じて、日本からギリシャ・ピレウス港に輸出された。
だから、アメリカ人やカナダ人は兎も角、ヨーロッパ人は東芝製のパソコンを使用する者が多い。
その理由:
①紛争時にヨーロッパ各国から集結した傭兵(意外と、スイス人やフランス人が多い)が戦利品として本国に持ち帰った
②取材に来た各国のジャーナリストの目に焼き着いた
③紛争調停に動いた各国の政治家や役人が興味を示した等が考えられる。従って、東芝のパソコンは、
宣伝広告費がほぼゼロで、ヨーロッパ各国で普及したモノの一つに数えられるのでは?
なお、1990年代初頭の湾岸戦争にも実は、日本製のあるモノが大量に輸出された。ビンゴの方には、座布団5枚ではなく、解答を。
これは私が船積をしたから、明確に記憶している。その名は、コンドーム。用途は、多国籍軍兵士たちの避妊防止やポルノ鑑賞ではなく、
戦車の主砲にコンドームを被せた。砂埃をシャット・アウトするため。
では、片目のダヤン
≪管理人感想≫
いつもながら非常に興味深いお話でした。私もピンとくるものが有りました。私の勝手な推測で、寄稿者様には確認していませんが、
1990年代初頭、東芝は、非常にユニークなノートパソコンを開発しました。
私の記憶に間違いが無ければ、商品名は「ダイナブック」当時は、ラップトップパソコン(膝の上に乗せて、操作するの意?)と呼んでいました。
「売り」は、何よりも「頑丈さ」と「衝撃に耐えうる性能」、似た物の多かった日本メーカーのノートPCの中では、
「商品の差別化」に成功した秀逸なマーケティングだと思いました。
東芝が、そこまで狙ったかどうかはわかりませんが、「頑強さ」故、在日米軍や、軍関係者に評判がよく、かなり台数が出たと記憶しています。
ダヤン氏が言うとおり、「傭兵」にとっては、もってこいのノートパソコンだと思いました。
私の記憶に間違いが有ればご指摘ください。
追記;今ネットで調べたら、東芝は、未だ「ダイナブック」ブランドで新製品を売り出していますね。
とっくに撤退したかと思ってました。東芝関係者の皆様失礼いたしました。
ダイナブック (東芝)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ダイナブック(DynaBook、2003年からdynabook)は、東芝クライアントソリューションが製造し、
東芝コンシューママーケティングが販売するパーソナルコンピュータの日本でのブランドである。
1989年に発売されたJ-3100SSから使用された。
歴史由来
ブランド名は、アラン・ケイの提唱した「ダイナブック」を意識し目指した[3]ことに由来する。
「ダイナブック」はアスキー(現・KADOKAWA)が取得していた商標だった。
当時は「DOSベースのただのノートパソコンにダイナブックという名前をつけるとは何事か」との批判もあったが、やがて東芝のブランドとして定着した。
ラップトップPCの開発
ラップトップ型 T-1000(1985年)
ポータブルパソコンの黎明期、東芝では1985年に当時としてはコンパクトなIBM PC互換機のラップトップPC第一弾、
T-1000(重量4Kg)を輸出専用モデルとして発売した。
欧米市場でのラップトップPCの成功を機に、東芝は本格的にPCハードウェア市場へ参入した。
1987年には世界初のハードディスク(10MB)搭載ラップトップ型パソコンであるT-3100を発売し、
その日本国内向けがJ-3100である。ラップトップ型で培った小型化への技術の進歩は、
その後に登場するノートブック型パソコンDynaBookシリーズへの布石となった。
小型ノートパソコンの登場
ダイナブック初代のJ-3100SSは、20万円を切る低価格とそれまでのラップトップPCより小型軽量な筐体で注目を集め、
「ブック型PC」(後のノート型PC)という新ジャンルを普及させた。
アーキテクチャ的にはそれまでのラップトップ型J-3100シリーズ同様にIBM PC互換で、独自の日本語表示機能
(画面解像度は640x400 ピクセル、80桁x25行)を追加したものであり、英語モードではIBM PC用ソフトウェアが実行できた。
いわゆるPC/AT互換機ベースであるが、初代は正確にはPC/XTベースで、グラフィック(英語モード)はCGA上位互換、
内部バスはXTバス(8ビットISA)であった。MS-DOSでコンベンショナルメモリとして使用可能な640KBのメモリの他に、
RAMディスクとして使える1.2MBの拡張メモリを搭載した。ハードディスクを持たないとはいえ、
日本語環境とテキストエディタ、通信ソフト、コンパイラなどを外部メディアに頼る事なく携帯できるという、
ノートパソコンに求められるスペックを十分に満たしたバランスのとれたマシンであった。
サイズの縮小に努力が払われ、フロッピーディスクドライブは25.4mmの厚さがあった従来品を、
18mmまで薄くすることが目標とされ、また、キーボード、液晶画面、その他筐体内の密度の高い実装について試行錯誤が繰り返された。
1991年に東芝はOADGに加盟し、ダイナブックも独自の日本語表示機能から、純粋なPC/AT互換機(いわゆるDOS/V)に移行し、
キーボード配列もOADG準拠の配列に移行した。ノートPCに必要な部品の多くを自社またはグループ会社で開発生産しており、
新開発の部品を用いたインパクトある製品を他社に先駆けて発売出来ることが強みであった。
1990年代後半の機種では、自社開発によるBIOS、チップセットをはじめ、メインメモリー、ハードディスク、
光学ディスクドライブ、液晶パネル、バッテリーのセルなどの部品が東芝またはグループ会社の製品で構成されている製品もある。
ノートPCに最適化したチップセットの開発で培った電力制御技術を活かして、
インテル、マイクロソフトと共に電源管理の規格ACPIの策定にも当初から参加した。
東芝は1994年から2000年までノートPC世界シェア7年連続1位を獲得した。
2006年BCNランキングにてPOSデータ集計セールスナンバーワン・ベンダーを選ぶ第8回「BCN AWARD 2007」
実売数ノートPC部門1位[5]を初受賞するなど、日本国内ノートパソコン販売シェアも堅調であった。
2009年現在の世界PC販売ランキングは、HP、エイサー、デル、レノボに次いで東芝が5位である(出荷台数ベース、IDC調査)。
*写真はダイナブック、第一号モデルとなったT-1000(1985年製)
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