伏見様及び読者の皆様:
今日は、五月晴れの東京。朝から、書類の整理をしていました。それで、標題のゴルダ・メイア(イスラエル初代女性首相)を
知り得た切欠に関して。これは、サラリーマン時代、イスラエルの諜報部員とバーで飲んでいる時に、出てきた話。
日本の首相やアメリカ大統領を話している時に、彼曰く「日本やアメリカは遅れている。何故なら、女性指導者を生んでいないからだ」。
その話を聞くと、イギリスはマーガレット・サッチャーを輩出し、労働組合やアイルランドのテロリストやアルゼンチン(フォークランド紛争)に
勝利した。イスラエルは、ゴルダ・メイアを生んでCIAやKGBを凌駕する世界最強の諜報機関モサドの枠組みを作り上げたとか。
このゴルダ・メイアの話で、今でも覚えていること。それは、ミュンヘン・オリンピック(1972年)で自国イスラエルの選手がその
ミュンヘンでパレスチナ・テロリストに殺害され、その報復活動を決断した際。モサドがその報復の承認計画書をメイア首相に提出した時、
彼女が云ったこと。
①うちの息子(モサド・エージェント)は、この作戦(オペレーション)で何人死ぬのか?
②その報復相手は、テロリストとその末端エージェントまで拡大すること
③作戦名を変えろとか。
それで、この作戦後、モサドは世界の諜報機関に恐れられることになる。
②に属する一族郎等まですべて殺害したこと。それもターゲットのアタマを一撃で打ち抜いた。ゴルゴ13顔負け。
③は通常の怒りや激怒を示す(anger)や(fury)ではなく、古語に属する(wrath)を使ったこと。これで、
作戦名:Operation, Wrath of God(神の怒り)。なお、この「ラス」は、シェークスピアやモームの原書を読むと、必ず出てくる。
それと、不思議と主人公がこの「ラス」の怒りに見舞われた場合、その敵方は必ず、死ぬこと。よくある表現は、
「彼は戦場で死ぬように運命づけられていた(He was doomed to die on the battlefield)」とか。
ここでのまとめ。「誰も角が二本ある鬼にならなくてはいけない(Anyone who have to be an ogre with two horns)」。
それが偶々、ゴルダ・メイア女史の役割だった訳。女性都知事に立候補する方は、このこともアタマの片隅に置いといて下さい。
いつ何時、東京都出身の選手団や事業団が海外でテロリストに襲われるか否かー誰も予測できません。そんな時の一番の対処方法は、
このゴルダ・メイア同様に迅速・確実・正確にそのテロリスト一派に報復すること。それが私の分析と予測。候補者は、
杉田水脈さんや村木厚子さんや読者の方も応援します。兎に角、就任後直ぐに都庁内に「対テロリスト対策本部」を設立して頂きたい。
追記:前回のフランス人と今回のイタリア人。彼らが共通して語ったこと。「このオレが仮にテロリストだったら、必ずこの東京を狙う」
その理由を訊くと、「最高の成果が得られるからだ」とか。
用心することに越したことなし。アラブ人テロリストが来日して、在日朝鮮人や中国人をその末端エージェントに利用した場合。大変なことが起きそうな気配。
≪管理人補足≫Wikiより
ゴルダ・メイア(גולדה מאיר (Goldah Me'ir), Golda Meir, 1898年5月3日 - 1978年12月8日)は、イスラエルの政治家、第5代首相(在任期間1969年-1974年)。
キブツで働くメイア(1920年代)
ロシアのキエフ(現在はウクライナ領)に生まれた。当時の名はゴルダ・マボヴィッツ(Golda Mabovitz)という。
1906年に、家族とともにポグロムの多発する貧しいウクライナからアメリカ合衆国ウィスコンシン州ミルウォーキーへ移民した。
ミルウォーキー州立師範学校(現ウィスコンシン大学ミルウォーキー校)を卒業した後、公立学校で教師として働く。
1915年にポアレ・ツィヨン Poale Zion(Labor Zionist Organization、労働シオニスト機構)に加盟し、
1921年に夫モリス・マイアーソン(Morris Myerson)とともにパレスチナに移住。その後1924年にテルアビブに転居し、公的機関などで勤務。
1949年にクネセト議員に初当選。1951年に夫は死亡し、労働大臣(在任期間1949年-1956年)・外務大臣(在任期間1956年-1966年)を歴任。
この間1956年に姓をヘブライ語名メイア(「燃え輝く」の意)に改めた。第3代首相レヴィ・エシュコルの死去を受けて首相に就任した。
第四次中東戦争の際、ユダヤ教の最も重要な休日であるヨム・キプール(贖罪日)にエジプトとシリアの連合軍は
イスラエル国防軍に対して奇襲攻撃を行う情報があったにもかかわらず、十分な対策をとらなかったことが批判の対象となり、
1974年に辞任。イツハク・ラビンに首相の座を譲った。1975年、イスラエル政府からイスラエル賞授与。
ゴルダ・メイアはエルサレムで死去し、エルサレムのヘルツルの丘に葬られた。
1984年に旧1万シェケル紙幣で、1987年のデノミネーション後は10新シェケル紙幣で肖像が使用されている。
首相在任中の主な出来事
ミュンヘンオリンピック事件の報復として行われた神の怒り作戦 (en:Operation Wrath of God) を承認した。
≪神の怒り作戦≫Wikiより
イスラエルによる報復作戦
この事件に対し、イスラエル政府は報復として空軍にPLOの基地10カ所の空爆を命じた
(イスラエルによるシリア・レバノン空爆 (1972年)(英語版))。これにより、65名から200名が死亡した。
神の怒り作戦
ゴルダ・メイア首相
イスラエルは空爆に続いて、さらなる報復および同様のテロの再発を防ぐことを名目に、黒い九月メンバーの暗殺を計画。
ゴルダ・メイア首相と上級閣僚で構成される秘密委員会を設置した。委員会はイスラエル諜報特務庁(モサド)に対して、
ミュンヘンオリンピック事件に関与した者の情報収集を行なわせ、これに基づき委員会は暗殺の対象を決定、
モサドの「カエサレア」と呼ばれる特殊部隊に暗殺を指示していたとされる。
この秘密作戦には「神の怒り作戦(英語版)」もしくは「バヨネット作戦」というコードネームがつけられているとされる。
作戦の開始
最初に暗殺されたのはアラファト議長のいとこで翻訳家のワエル・ズワイテルであった。黒い九月のメンバーでもあった彼は、
1972年10月16日、ローマの自宅アパート内で射殺されている。その後もモサド工作員はターゲットを銃、
あるいはリモコン式の爆弾で次々と暗殺した。1972年12月8日、黒い九月のブレーン的存在であったマフムド・ハムシャリ博士が
パリのアパート内に仕掛けられた爆弾で負傷。彼はこの時の怪我がもとで1か月後に亡くなった。
1973年1月24日にはPLOとソ連KGBのリエゾンであったフセイン・アバト・アッ・シルがキプロスの首都ニコシアのホテルで爆殺された。
黒い九月の反撃
黒い九月も反撃を開始し、モサドの工作員、協力者などを殺害している。1972年11月13日、モサドの情報提供者である
パリ在住のシリア人ジャーナリストが射殺され、翌年1月26日にはモサド工作員のバルク・コーエンがマドリードの目抜き通りで射殺された。
ベイルート特攻作戦
イスラエル軍とモサドは1973年4月9日、ベイルートにあるPLOと黒い九月の幹部らが宿泊していたアパートを奇襲した
(イスラエルによるレバノン襲撃 (1973年)(英語版))。PLOの公式スポークスマンであるカマル・ナサラ、黒い九月の幹部
ユーセフ・ナジャール及びカマル・アドワンの3名を殺害。この時、暗殺部隊はイスラエルから船でベイルートに移動し、
敵の目を欺くために半数は女装していたが、警備兵に気付かれて銃撃戦になり、強行突入の末に幹部を射殺したとされる。
当時のベイルートはPLOの本拠地であり、敵中における軍事作戦であった。部隊を指揮していたのは後のイスラエル首相となる
エフード・バラクで、彼も女装して幹部らのアパート襲撃に加わった。その後も暗殺は続けられ、
1973年6月28日には黒い九月の欧州責任者モハメド・ブーディアがパリで車に仕掛けられた爆弾により死亡している。
暗殺計画の露呈
モサドによる暗殺計画は、人違いにより無関係な一般市民を射殺したことから明るみに出ることになる。
ノルウェーのリレハンメルで1973年7月21日、モサドはミュンヘンオリンピック事件の黒幕とされる
アリ・ハッサン・サラメらしき男性がバス停にいるところを射殺したが、この男性は全く無関係のモロッコ人であった。
この事件でモサド工作員5名はノルウェー捜査機関に逮捕され、車や名簿などが押収された。
この時逮捕された工作員が、ヨーロッパ各国におけるモサドの暗殺計画を自白したため、
ヨーロッパ各国はイスラエルの行動に懸念を示すことになるが、モサドによるサラメの暗殺計画は続行された。
サラメの暗殺
その後、モサドはベイルートにサラメがいることを突き止めると、イギリス国籍を持つ女性工作員のエリカ・チャンバースを
ベイルートへ派遣する。チャンバースは難民を支援する慈善活動家を名乗ってベイルートで活動し、サラメの行動確認を行った。
1979年1月22日、暗殺部隊とチャンバースは彼の車が通る場所に車爆弾を仕掛け、通過した際に彼を車ごと爆破して殺害した。
チャンバースは暗殺後すぐに出国して姿を消し、サラメの殺害により作戦は終結したとされる。
これらの作戦についてイスラエルとモサドは正式な発表を行なっていないが、20名以上のパレスチナ武装組織の人間が暗殺されたといわれる。
2005年に公開されたスティーヴン・スピルバーグ監督の映画『ミュンヘン』はこの「神の怒り作戦」に
関わったアヴナー(仮名)という工作員の実話に基づくものとされている。しかし、イスラエル政府やモサドの元高官などはこの事を否定している。
暗殺を免れた人物
神の怒り作戦により多くのパレスチナ人が暗殺されたが、一方で暗殺をかろうじて免れた人物も存在する。
黒い九月の創設者であるアブ・ダウードは2010年7月に腎不全で死去するまで暗殺を免れた。
*写真はゴルダメイア女史
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今日は、五月晴れの東京。朝から、書類の整理をしていました。それで、標題のゴルダ・メイア(イスラエル初代女性首相)を
知り得た切欠に関して。これは、サラリーマン時代、イスラエルの諜報部員とバーで飲んでいる時に、出てきた話。
日本の首相やアメリカ大統領を話している時に、彼曰く「日本やアメリカは遅れている。何故なら、女性指導者を生んでいないからだ」。
その話を聞くと、イギリスはマーガレット・サッチャーを輩出し、労働組合やアイルランドのテロリストやアルゼンチン(フォークランド紛争)に
勝利した。イスラエルは、ゴルダ・メイアを生んでCIAやKGBを凌駕する世界最強の諜報機関モサドの枠組みを作り上げたとか。
このゴルダ・メイアの話で、今でも覚えていること。それは、ミュンヘン・オリンピック(1972年)で自国イスラエルの選手がその
ミュンヘンでパレスチナ・テロリストに殺害され、その報復活動を決断した際。モサドがその報復の承認計画書をメイア首相に提出した時、
彼女が云ったこと。
①うちの息子(モサド・エージェント)は、この作戦(オペレーション)で何人死ぬのか?
②その報復相手は、テロリストとその末端エージェントまで拡大すること
③作戦名を変えろとか。
それで、この作戦後、モサドは世界の諜報機関に恐れられることになる。
②に属する一族郎等まですべて殺害したこと。それもターゲットのアタマを一撃で打ち抜いた。ゴルゴ13顔負け。
③は通常の怒りや激怒を示す(anger)や(fury)ではなく、古語に属する(wrath)を使ったこと。これで、
作戦名:Operation, Wrath of God(神の怒り)。なお、この「ラス」は、シェークスピアやモームの原書を読むと、必ず出てくる。
それと、不思議と主人公がこの「ラス」の怒りに見舞われた場合、その敵方は必ず、死ぬこと。よくある表現は、
「彼は戦場で死ぬように運命づけられていた(He was doomed to die on the battlefield)」とか。
ここでのまとめ。「誰も角が二本ある鬼にならなくてはいけない(Anyone who have to be an ogre with two horns)」。
それが偶々、ゴルダ・メイア女史の役割だった訳。女性都知事に立候補する方は、このこともアタマの片隅に置いといて下さい。
いつ何時、東京都出身の選手団や事業団が海外でテロリストに襲われるか否かー誰も予測できません。そんな時の一番の対処方法は、
このゴルダ・メイア同様に迅速・確実・正確にそのテロリスト一派に報復すること。それが私の分析と予測。候補者は、
杉田水脈さんや村木厚子さんや読者の方も応援します。兎に角、就任後直ぐに都庁内に「対テロリスト対策本部」を設立して頂きたい。
追記:前回のフランス人と今回のイタリア人。彼らが共通して語ったこと。「このオレが仮にテロリストだったら、必ずこの東京を狙う」
その理由を訊くと、「最高の成果が得られるからだ」とか。
用心することに越したことなし。アラブ人テロリストが来日して、在日朝鮮人や中国人をその末端エージェントに利用した場合。大変なことが起きそうな気配。
≪管理人補足≫Wikiより
ゴルダ・メイア(גולדה מאיר (Goldah Me'ir), Golda Meir, 1898年5月3日 - 1978年12月8日)は、イスラエルの政治家、第5代首相(在任期間1969年-1974年)。
キブツで働くメイア(1920年代)
ロシアのキエフ(現在はウクライナ領)に生まれた。当時の名はゴルダ・マボヴィッツ(Golda Mabovitz)という。
1906年に、家族とともにポグロムの多発する貧しいウクライナからアメリカ合衆国ウィスコンシン州ミルウォーキーへ移民した。
ミルウォーキー州立師範学校(現ウィスコンシン大学ミルウォーキー校)を卒業した後、公立学校で教師として働く。
1915年にポアレ・ツィヨン Poale Zion(Labor Zionist Organization、労働シオニスト機構)に加盟し、
1921年に夫モリス・マイアーソン(Morris Myerson)とともにパレスチナに移住。その後1924年にテルアビブに転居し、公的機関などで勤務。
1949年にクネセト議員に初当選。1951年に夫は死亡し、労働大臣(在任期間1949年-1956年)・外務大臣(在任期間1956年-1966年)を歴任。
この間1956年に姓をヘブライ語名メイア(「燃え輝く」の意)に改めた。第3代首相レヴィ・エシュコルの死去を受けて首相に就任した。
第四次中東戦争の際、ユダヤ教の最も重要な休日であるヨム・キプール(贖罪日)にエジプトとシリアの連合軍は
イスラエル国防軍に対して奇襲攻撃を行う情報があったにもかかわらず、十分な対策をとらなかったことが批判の対象となり、
1974年に辞任。イツハク・ラビンに首相の座を譲った。1975年、イスラエル政府からイスラエル賞授与。
ゴルダ・メイアはエルサレムで死去し、エルサレムのヘルツルの丘に葬られた。
1984年に旧1万シェケル紙幣で、1987年のデノミネーション後は10新シェケル紙幣で肖像が使用されている。
首相在任中の主な出来事
ミュンヘンオリンピック事件の報復として行われた神の怒り作戦 (en:Operation Wrath of God) を承認した。
≪神の怒り作戦≫Wikiより
イスラエルによる報復作戦
この事件に対し、イスラエル政府は報復として空軍にPLOの基地10カ所の空爆を命じた
(イスラエルによるシリア・レバノン空爆 (1972年)(英語版))。これにより、65名から200名が死亡した。
神の怒り作戦
ゴルダ・メイア首相
イスラエルは空爆に続いて、さらなる報復および同様のテロの再発を防ぐことを名目に、黒い九月メンバーの暗殺を計画。
ゴルダ・メイア首相と上級閣僚で構成される秘密委員会を設置した。委員会はイスラエル諜報特務庁(モサド)に対して、
ミュンヘンオリンピック事件に関与した者の情報収集を行なわせ、これに基づき委員会は暗殺の対象を決定、
モサドの「カエサレア」と呼ばれる特殊部隊に暗殺を指示していたとされる。
この秘密作戦には「神の怒り作戦(英語版)」もしくは「バヨネット作戦」というコードネームがつけられているとされる。
作戦の開始
最初に暗殺されたのはアラファト議長のいとこで翻訳家のワエル・ズワイテルであった。黒い九月のメンバーでもあった彼は、
1972年10月16日、ローマの自宅アパート内で射殺されている。その後もモサド工作員はターゲットを銃、
あるいはリモコン式の爆弾で次々と暗殺した。1972年12月8日、黒い九月のブレーン的存在であったマフムド・ハムシャリ博士が
パリのアパート内に仕掛けられた爆弾で負傷。彼はこの時の怪我がもとで1か月後に亡くなった。
1973年1月24日にはPLOとソ連KGBのリエゾンであったフセイン・アバト・アッ・シルがキプロスの首都ニコシアのホテルで爆殺された。
黒い九月の反撃
黒い九月も反撃を開始し、モサドの工作員、協力者などを殺害している。1972年11月13日、モサドの情報提供者である
パリ在住のシリア人ジャーナリストが射殺され、翌年1月26日にはモサド工作員のバルク・コーエンがマドリードの目抜き通りで射殺された。
ベイルート特攻作戦
イスラエル軍とモサドは1973年4月9日、ベイルートにあるPLOと黒い九月の幹部らが宿泊していたアパートを奇襲した
(イスラエルによるレバノン襲撃 (1973年)(英語版))。PLOの公式スポークスマンであるカマル・ナサラ、黒い九月の幹部
ユーセフ・ナジャール及びカマル・アドワンの3名を殺害。この時、暗殺部隊はイスラエルから船でベイルートに移動し、
敵の目を欺くために半数は女装していたが、警備兵に気付かれて銃撃戦になり、強行突入の末に幹部を射殺したとされる。
当時のベイルートはPLOの本拠地であり、敵中における軍事作戦であった。部隊を指揮していたのは後のイスラエル首相となる
エフード・バラクで、彼も女装して幹部らのアパート襲撃に加わった。その後も暗殺は続けられ、
1973年6月28日には黒い九月の欧州責任者モハメド・ブーディアがパリで車に仕掛けられた爆弾により死亡している。
暗殺計画の露呈
モサドによる暗殺計画は、人違いにより無関係な一般市民を射殺したことから明るみに出ることになる。
ノルウェーのリレハンメルで1973年7月21日、モサドはミュンヘンオリンピック事件の黒幕とされる
アリ・ハッサン・サラメらしき男性がバス停にいるところを射殺したが、この男性は全く無関係のモロッコ人であった。
この事件でモサド工作員5名はノルウェー捜査機関に逮捕され、車や名簿などが押収された。
この時逮捕された工作員が、ヨーロッパ各国におけるモサドの暗殺計画を自白したため、
ヨーロッパ各国はイスラエルの行動に懸念を示すことになるが、モサドによるサラメの暗殺計画は続行された。
サラメの暗殺
その後、モサドはベイルートにサラメがいることを突き止めると、イギリス国籍を持つ女性工作員のエリカ・チャンバースを
ベイルートへ派遣する。チャンバースは難民を支援する慈善活動家を名乗ってベイルートで活動し、サラメの行動確認を行った。
1979年1月22日、暗殺部隊とチャンバースは彼の車が通る場所に車爆弾を仕掛け、通過した際に彼を車ごと爆破して殺害した。
チャンバースは暗殺後すぐに出国して姿を消し、サラメの殺害により作戦は終結したとされる。
これらの作戦についてイスラエルとモサドは正式な発表を行なっていないが、20名以上のパレスチナ武装組織の人間が暗殺されたといわれる。
2005年に公開されたスティーヴン・スピルバーグ監督の映画『ミュンヘン』はこの「神の怒り作戦」に
関わったアヴナー(仮名)という工作員の実話に基づくものとされている。しかし、イスラエル政府やモサドの元高官などはこの事を否定している。
暗殺を免れた人物
神の怒り作戦により多くのパレスチナ人が暗殺されたが、一方で暗殺をかろうじて免れた人物も存在する。
黒い九月の創設者であるアブ・ダウードは2010年7月に腎不全で死去するまで暗殺を免れた。
*写真はゴルダメイア女史
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