1987年、後藤は東京都新宿区に不動産会社「エム・プランニング」を設立、新宿、渋谷に事業を展開させる。
1988年、後藤組員が警備のパトカーに発砲、警官に重傷を負わせる。
日本共産党と後藤組
1989年、日本共産党への政治献金が明るみに出て東京、埼玉の右翼から街宣車攻撃を受けていた「地産グループ」
(竹井博友が総帥)の攻防に介入し、右翼団体を排除する腕力を発揮。
(1991年、「地産グループ」から10億円の迂回融資を受けた疑いで東京地検から事情聴取を受ける。)
渡辺芳則を組長とする五代目山口組では、後藤は山口組東京進出の先兵となり勢力拡大に寄与した。
この頃までに後藤組は首都圏のほか、北海道、岩手、福島、埼玉、熊本まで十二都道府県に30以上の傘下団体を持つようになった。
1990年2月、当時山口組若頭だった宅見勝率いる宅見組構成員2人が二率会の組員により射殺される事件が起きる。
この報復で山口組、後藤組は八王子へ進出し、20回近くカチコミ(建物にめがけて拳銃を発砲すること)を繰り返す「八王子抗争」を起こした。
ニ率会を平伏させると、後藤はニ率会構成員を吸収して同地域に後藤組正東会を作らせた。
会長には古橋勝利(後に後藤組舎弟頭補佐)を置いた。
溝口敦襲撃事件
同年5月、後藤はジャーナリストの溝口敦を西新宿の事務所に呼びつけた。
当時、溝口はスポーツ紙に山口組の記事を連載していた。溝口は過去に後藤にインタビューをしており、後藤は溝口に
「うちはマフィア化するね。若い者なんかヤクザ登録しないで、表向き組とのつながりを切った形で企業舎弟に仕立て上げていく。
だけどオレはやつらに儲けはさせない。ヒモをぐっと引いて儲けを吐き出させる」と、自身を鵜飼いに例えながら語っていた。
そんな後藤が溝口を呼びつけた理由は、溝口が刊行しようと準備していた『五代目山口組』にクレームを伝えようとしていたためである。
後藤「山口組のオレの仲間があんたを問題にしている。ハネっ返りも2、3いることだし、あんたにケガをさせたくもない。
オレはあんたを知らんわけじゃないから、こうして問に入ったわけだが、どうだろう。
今後、山口組のことを書くに当たっては事前に原稿をオレに見せてくれないか」
溝口は摩擦を避けるため妥協するつもりだったが、2日後に後藤は頭から「出版を中止してほしい」と電話で伝えて来た。
溝口「中止したら、ライターとして物笑いのタネになる。どうあっても中止だけはのめない」
6月末、溝口は「五代目山口組」を刊行した。
同年8月末、高田馬場で男に左背を深さ10センチ、幅5センチにわたって刺され、東京女子医大に搬送された。犯人は逮捕されず、公訴時効が成立した。
後藤組、上九一色村で事件を起こす
1992年11月、静岡県知事に無届けで土地を売却した国土利用法計画法違反容疑で後藤組幹部が経営する金融不動産業
「エム・プランニング」=新宿区西新宿6=が摘発される。
逮捕されたのは後藤組内鴻池組組長の鴻池隆(当時45)=静岡県浜松市布橋=、後藤組内勝政会会長・佐野勝政(当時50)=
富士宮市松本69-20=ら5人と、千代田区麹町の不動産会社「愛時資」副社長、橘田幸俊(当時36)=渋谷区代々木5=ら同社役員2人。
「エム・プランニング」は山梨県内のゴルフ場の隣接地を購入価格の10倍でゴルフ場開発会社に買い取らせ、約6億円の利益を上げたとされる。
他でも動揺の手口で買い取りを迫り、応じない場合は隣接地に豚小屋を建てたり、廃油をまくなどのいやがらせをする。
応じた場合は建設工事を請け負う。こうして豊富な資金源を増やした。関係者によると、直系組長は通常月額、80~100万円の上納金を納めるところを、
後藤組の上納金は破格の数千万円に上ることもあったという。
*写真は後藤組に襲撃されたジャーナリストの溝口敦
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