≪後藤忠政とは≫
後藤が中学を卒業した1958年、父後藤和吉が死亡(享年61)。
親戚の縁故で旅館「小松家」の番頭をするが続かず、土方や工場も身にあわず職を転々とする。
兄弟が就職で離れ離れとなり孤独となった後藤は愚連隊に居場所を求め、恐喝を度々繰り返したという。
1969年、暴力団・川内組若頭補佐兼静岡支部長を経て、富士宮市に暴力団・後藤組を結成して組長となる。
後藤組はその後、静岡県における山口組勢力拡大の嚆矢となった。
後藤は、縁あって静岡県浜松市の伊堂組(伊堂敏雄組長)の舎弟となる。
1983年3月、富士宮市内のパチンコ店に後藤の手下である柏木一身が乗り込み、日本刀で経営者の顔を切りつける事件が発生。
翌年にも別の幹部がみかじめ料をめぐってパチンコ店主の顔を切りつけたり、ダンプカーで店を破壊する事件を起こす。
1984年7月、竹中正久を組長とする四代目山口組が発足すると伊堂組長は引退。後藤は地盤を引き継いで四代目山口組直参に昇格した。
竹中正久が山口組四代目組長に就くと後藤も山口組直系組長として末席に連なることが許されるようになった。
1985年1月、竹中組長が一和会の構成員に射殺されると山口組と一和会の間で『山一抗争』が勃発した。後藤は一和会の報復に参加し、
同年5月に後藤組の構成員、池田満の組員ら3人がダイナマイトを持参してダンプカーに乗りつけ、そのまま神戸市内の一和会会長・
山本広の自宅に突入した。ダンプは警察が設置した車止めを押し倒し、電柱にぶつかって動かなくなった。ダンプから現れた組員は、
拳銃を所持しており、すぐに機動隊員と銃撃戦を繰り広げた。死者は出なかったが、組員一人が機動隊員に左肩を撃たれ負傷している。
一和会を直接攻撃するのは失敗した。しかし、警察が固めていようと敵の本丸に突入する後藤の戦意は山口組内部で評価され、
この頃から後藤組は”東海道の暴れん坊”、”武闘派”と呼ばれるようになった。
4月14日、一和会副幹事長吉田好延が国鉄三ノ宮駅前の交差点で停車中に、後藤組幹部の佐藤明義に38口径の拳銃で4発の銃撃を受けた。
吉田は無事だったものの、同乗していた組員2人が窓ガラスの破片で負傷した。
糸山英太郎襲撃事件
父親の佐々木真太郎は”ゴルフ場王”と呼ばれ、田中角栄、金丸信、安倍晋太郎といった大物や、笹川良一、山口組3代目田岡一雄の長男田岡演とも接点があった。
糸山はゴルフ場の経営で実績を上げ、父親と親しかった笹川良一の親族と結婚。資金的にも恵まれるようになり、
政界、投資にも進出。後の総理大臣・中曽根康弘の秘書を経て、1974年(昭和49年)、石原慎太郎の後押しにより
自由民主党から第10回参議院議員通常選挙に全国区出馬、32歳で参議院議員に初当選する。竹下内閣では外務委員長の要職に就く。
1985年12月暮れ、糸山は新高輪プリンスホテルで選挙資金集めパーティーを計画。
この資金めパーティーに無理矢理協力を押し付けられた関西のある一部上場大手建設会社が、ツテを辿って新右翼活動家・
野村秋介に相談。野村はこのパーティーを潰すことを企画し、稲川会、住吉連合会、山口組の組員らにパーティー券を配布。
野村と親密だった後藤組には100枚の券が配られる。
暴力団員が大挙するのを知った糸山は警察を動員。しかし警備はうまくいかず、後藤と野村秋介が現れ糸山に直接抗議を行った。
これに対し糸山はバックの笹川良一の名をちらつかせ、二人の怒りを増幅させた。
1986年6月17日、埼玉県秩父市の市民会館で糸山が総決起大会を開いていたところを後藤組傘下の良知組構成員二人がナイフで襲撃。
糸山は左腕に一週間のけがを負い、犯人は現行犯逮捕された。
*写真は後藤組に襲撃された糸山英太郎議員
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