元高官「先帝様は1985年(昭和60年)「在位60周年」を迎えるころから、真剣に「廃太子、廃妃」を考え始めたと聞いている。
昭和天皇在位60周年記念の式典に、美智子は「体調不良」であてつけ欠席し、先帝様は激怒した。しかし、宮中で「廃妃」の噂が出る度に
謎の朝鮮族女の正田富美が敏感に察知して、当時、朝日新聞の専務に出世していた、美智子の「間男」の佐伯晋に電話して「印象操作」して
「美智子様お可哀そう」の論陣を張らせて、先帝様を牽制した。
先帝様は、「君側の奸」の侍従長の入江相政が死ぬのを待った。入江が美智子と男女の仲であることは熟知していたし、定年退職後、美智子に消されることも想定内であっただろう。
予想通り、定年を5日後に控えた入江は、1985年9月26日に急死した。
先帝様は、すかさず、後任の徳川侍従長に早速、「廃太子廃妃」の可否について下問すると、徳川は「極めて困難だと思います」と回答したそうだ。
理由は
① マスコミ、特に朝日、三流女性誌を通じて「美智子様お可哀そう伝説」「香淳皇后以下、旧華族妃殿下による嫁苛め」と言う事実と異なる
イメージが世間に定着してしまっていたからだ。
② 加えて、明仁皇太子が大きな失態もなく、公務を無難にこなしていたこと。
③ 自民党内に、頼りになる政治家がいなくなっていたこと。
先帝様は、無学な田中角栄を嫌っていた。福田赳夫も部落民で、徳仁の妃に、小和田雅子を推薦し叱責されていた。
当時の総理、中曽根康弘は自民党一の「嫌われ者」で総理の器ではないと嫌っていた。
戦時内閣時代から信頼した、元総理の岸信介(安倍総理)は既に1980年に政界を引退していた。
私「先帝様は、とりあえず「廃太子・廃妃」は様子見しようという結論に達したわけですね」
元「そうだ。しかし、健康に自信のあった先帝様は1987年の4月29日の、天皇誕生日の席上で、突然嘔吐した。
となりの席は美智子であり、先帝様が嘔吐すると不自然にも勝手に途中退席した。
同年8月以降、吐しゃを繰り返し、体重の急減が始まると、先帝様はある決断をなさることになる。
*写真は徳川侍従長、向かって左
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