元高官「昭和天皇はお元気なころから、本気で廃太子(明仁皇太子)廃妃(美智子)を考えていたんだ」
私「本当ですか?」
元「本当だよ。先帝様は、今上の能力や器をよく見ていた。それで、能力不足を補う賢明な妃を望んでいたんだ。
それが、昭和33年当時、最有力候補と言われた、北白川肇子様だ。しかし、当時の学習院では、旧宮家、華族の情報ネットワークで
今上の知能の低さ、無駄なプライドの高さ、傲慢さ、総合的な悪評は公然の秘密だったんだよ。」
私「でも、いつも出てくる橋本明と言うご学友がいるじゃないですか?」
元「あいつは、所謂「ご学友ビジネス」で裏金を貰って演技してるんだよ。しかも、よく見てみたまえ勤務先が、美智子の親戚の共同通信じゃないか」
私「なるほど」
元「肇子様は、「死んでも今上さんの妃にはなりたくない」と思ったんだろうな。学習院の小論文で「蟹工船」何かについて書いて、アカを演じてまで抵抗したんだ。」
私「彼女は命がけで逃げ切ったのですね」
元「その通りだ。妙齢の女性が「アカ」と言う禁じ手まで使って、逃げ切った。当時は、未だ戦前の特高警察の恐怖の記憶も生々しい頃だよ。
はっきり言って今上はそれだけ、嫌われていたということだよ。」
私「じゃあなぜ、美智子の妃を認めたのですか?」
元「今上の人物では、まともな良家の娘の来てが無かったということだ。その間隙をついて吉田茂が美智子を押し込んできたんだ。しかも、
吉田の周到な策略で、先帝様は周囲を吉田人脈のカトリックで包囲されていたんだ。先ずは、宮内庁長官の田島道治、こいつは、GHQの走狗で
秩父宮殿下が薨去された時、葬儀に出ようとした先帝様を阻止した。それと東宮教育参与の小泉信三、こいつは、先の大戦で、息子の信吉が戦死したので
先帝様を恨んでいたんだ。戦死した息子の思い出を何度も著作にしている。女々しい男だ」
私「私の郷里の薩摩では「戦死」は軍人の名誉で、家人は誇りとすべきものです。我が母校の塾長ですが、経済学者を名乗っていますが、
経済学者として、世界的に評価される論文は何一つありません。もはや「博物館入り」した人物です。」
元「常磐会会長の松平女史、香淳皇后以下2妃殿下、梨本宮伊都子妃、柳原白蓮らが猛反対したが。先帝様は妥協した。
私は、それで良かったと思う。反対派の気持ちは理解できるが、今上には見合い25連敗の美智子しか来てがなかったと思う。
いつまでも独身で放っておくわけにはいかないし、一生独身だとしても、優秀な常陸宮に変えようとすると、面倒な「廃太子」の問題が起きてしまう。
常陸宮は頭脳明晰で、人柄も良かったから、津軽華子様と恋愛からとんとん拍子に婚約に至ったんだ。」
*写真は今上の妃候補から命がけで逃げ切った北白川肇子様(現姓;島津)
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