伏見様、待っておりました!
前回より【伏見節】が復活致しましたね。嬉しい限りです。どんどん切りまくっ
て下さいませ。
実の父親よりも、昭和天皇や高松宮親王を敬愛されていました桂宮様は、堤&佐伯
と小和田一派から暗殺未遂をされたのではないかと思われますので、時 系列で
追ってみました。
*暗殺未遂事件*
1988年(昭和63年)1月1日に、昭和天皇から「桂宮」の称号を与えられ、独立の
生計を営むようになった。
同年2月20日に、宮家創設の祝宴を開いた。
しかし、その3か月後の同年5月26日、自室で意識不明の状態で倒れているところ
を職員に発見された。
独立した建物ではなく、マンションの一室である。正式な宮邸ではなく、しかも
御用地の外にあえて「仮寓」していた理由は不明。
すぐに都立広尾病院に入院して、手術を受けた。病名は未公表ながら、急性硬膜
下血腫などと報道された。
急性硬膜下血腫は、厳密には病気ではなく、頭部の強打により脳挫傷が起き、脳
から出血して硬膜と脳の間に血液がたまり脳を圧迫するもので、死亡率 はきわ
めて高い。
いずれにしても転倒・転落などの事故があったことになる。
幸いにも同年8月に意識を回復。
翌1989年(昭和64年/平成元年)初めにあった昭和天
皇の死去と今上天皇の即位に伴う一連の行事は欠席。
**時系列(一部伏見様の過去記事も含む)**
1984(昭和59年)年、9月にコルマールで、12月にメリベルで、徳仁と雅子が密会
1984年、小和田恒、外務省条約局長
池田勇人や大平正芳が率いた【宏池会】の名付け親である右翼・安岡正篤の弟子
でもあり、安岡が主宰する「而学会」に、義理のいとこ・江藤淳らとと もに参加していた
1980年代後半、堤義明、バブル景気真っ只中、米国の経済誌『フォーブス』に
「世界一の大富豪」(The World's Billionaires)として取り上げられ、その保有総資産額は3兆円と報じられる。
父親・堤康次郎は【宏池会】に属していた。
1986年 4月29日 昭和天皇在位60周年記念式典に何故か美智子は欠席
1987年(昭和62年、)昭和天皇が最初にお倒れになる
1987年、徳仁と雅子の密会がj頻繁に
1987年 小和田恒 外務大臣官房長、
1988年(昭和63年)1月1日、桂宮親王、昭和天皇から「桂宮」の称号を与えらた。
1988年2月20日、桂の宮家創設の祝宴を開いた。
1988年4月、徳川侍従長更迭・・・・美智子の指示、実行は明仁皇太子
(徳川侍従長は、先帝様に52年仕えた方で華族出身)
1988年5月26日、桂宮様ご発病(暗殺未遂?)
1988年6月、富田宮内庁長官更迭・・・・美智子の指示、実行したのは明仁皇太子
(富田長官は、小和田雅子御妃候補絶対反対派)
1988年 小和田恒 OECD政府代表部大使
(創価学会からの要請に応じて、池田大作名誉会長らの外国訪問旅行に便宜供与を図ったとして、国会で追及されている)
1988年(昭和63年)9月19日、昭和天皇吐血
1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇お隠れになる
とっても臭いますね。邪魔者は消せですか。
この堤、小和田、エタ頭、創価&政界、皇室と皆繋がってしまいますね。
もっと調べれば、出せない名前の人が沢山おり、怖くてこの先に行けないです。
*** 美智子さん、あなた誰? ***
(昭和34年内閣委員会議事録より)
【国会も何ら御結婚について知らされておりません。】
皇室会議が開かれたのは(昭和34年)十一月二十七日でございますが、その前
★十一月二十四日に、宮内庁は公電をもって【館林=正田本家、正田醤油】に通知しております。
皇太子妃決定は公式発表の十日前、つまり十一月十七日のニューズウイークが最初に配信した。
皇太子妃決定に関して小泉信三・田島前長官などが先頭に立ち、総理大臣はその
報告を受けるだけで、なんら疑問をさしはさむ余地がなかった。
それでも「信仰」の問題は気になった。(岸信介元総理大臣)
国民も国会も何も知らされておらず、しかも皇室会議が一度だけ開かれたのみ。
結局皇室会議を一度開きまして、決定をやったのは既成事実をただ承認しただけ、椎熊前副議長などに聞きますと、
その日に正田家の家系その他いろい ろ書類を渡されて、それにただ無言で賛成しただけだというふうにも聞いておるのであります。
要するに、「正田美智子さん」という人について、実は国民も総理大臣も、どんな出自の人でどんな考えを持ち、どんな性格なのかという事を全く知ら されて
いなかったんですよ。
美智子さん、毎回お顔とお耳、大根足の形や身長にたいする長さが違いますけど?
≪補足≫当時の岸信介総理(安倍総理のおじい様)は、2年間の在任中に現在の日本の安全保障体制の基礎となる、「日米安保条約改定」を行った。
吉田茂首相が結んだ「旧日米安保」よりも、格段に日本が有利になる軍事同盟なのに、左翼や全学連の抵抗に遭い苦労された。
巷では「初の平民による皇太子の御妃決定か?」で湧いていたが、超忙しくそれどころではなかったでしょう。
皇室会議の席でいきなり、分厚い調査資料を「ボン」と渡されて、「見ろ」と言われても、東大法学部首席の岸総理ですら、書類の精査は不可能だったでしょう。
しかも、「美智子推薦派」のバックには、昭和、戦後の元勲と言われた、吉田茂元総理(クリスチャン)がいた。
保守合同で自由民主党が成立したとはいえ、岸先生率いる「岸派」は、人数的には吉田派(後に田中派と大平派に分かれる)より劣勢でした。
しかも、当時の吉田茂元首相は、自民党内で隠然たる影響力を持っており「キングメーカー」でした。実際、岸元総理退陣後は自分の子分の池田勇人を総理にしています。
岸先生としたら、不承不承ながらも「正田美智子入内」を飲まざるを得ない政治環境だったと思います。しかし、それでもさすが岸先生で「キモ」だけはちゃんとチェックしています。
岸総理「お~い、正田美智子嬢は洗礼を受けているのか?」「いえ、受けていません」小泉信三か宮内庁長官の田島道治かは知りませんが、既にここで、大嘘を答えています。
多忙な岸総理としては、その言葉を信じるしかありませんでした。
下手にここで「ちゃぶ台返し」をすれば、党内で吉田派からどんな日米安保の嫌がらせを受けるかわかりません。
宮内庁長官の田島道治はもろにGHQの押しで宮内庁長官になった人です。
「入江相政日記」では、昭和天皇のすぐ下の弟君で戦後亡くなられた秩父宮殿下の葬儀で、昭和帝の葬儀参列を妨害した男です。
しかし、その田島でさえ、正田美智子の母方の佐賀、副島家の家系調査は不十分で疑惑が多いと正直に記録しています。
歴史の「大いなる皮肉」と言えるでしょう。
もう読者の皆様は既にお分かりのように、アメリカ、GHQ、クリスチャン勢力の綿密に打ち合わせした陰謀で
「最初に正田美智子妃決定ありき」の「プロレス」の小泉らの家系調査だったのです。
慶応塾長だった小泉の「正田家家計調査」が如何にいい加減な虚構だったかは、昨年拙ブログで検証したばかりです。
私はOBとして恥ずかしい、「慶應に二人の【馬鹿小泉】あり、一人は元塾長の小泉信三、もう一人は朝鮮人で横須賀が地盤の小泉ちょん一郎です(笑)
確かに先の大戦で小泉信三は、一人息子を失いました。しかし、「軍人にとって戦死することは名誉」です。
それを逆恨みして、「穢多と朝鮮の混血女」を皇室に潜り込ませ、「長期的な皇室破壊」を狙うとは、何たる卑しい精神でしょうか?
東条首相は戦時中確かに酷なことはしました。慶應出身で三菱財閥の総帥の池田成彬が東条に「反戦」を呼びかけると
池田の息子をわざわざ、最前線に回して、結果的に戦死させています。
しかし、戦後、池田が「反天皇主義者」になったという話は聞きません。
東条首相は、戦後「茶番」の東京裁判で首席検事のキーナンと司法取引をして、
自分が罪を全部被る代わりに、「昭和天皇の不起訴」を認めさせて、刑場の露として消えました。
★最後に「美智子入内」は岸元総理の責任ではありませんが、これも、何かのご縁でしょうから、
安倍総理の手で「自称皇后美智子」に最終的な引導を渡してほしいと思います。
*写真は、強い疑念を抱きながらも、しぶしぶ入内OKを出した岸信介元総理
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前回より【伏見節】が復活致しましたね。嬉しい限りです。どんどん切りまくっ
て下さいませ。
実の父親よりも、昭和天皇や高松宮親王を敬愛されていました桂宮様は、堤&佐伯
と小和田一派から暗殺未遂をされたのではないかと思われますので、時 系列で
追ってみました。
*暗殺未遂事件*
1988年(昭和63年)1月1日に、昭和天皇から「桂宮」の称号を与えられ、独立の
生計を営むようになった。
同年2月20日に、宮家創設の祝宴を開いた。
しかし、その3か月後の同年5月26日、自室で意識不明の状態で倒れているところ
を職員に発見された。
独立した建物ではなく、マンションの一室である。正式な宮邸ではなく、しかも
御用地の外にあえて「仮寓」していた理由は不明。
すぐに都立広尾病院に入院して、手術を受けた。病名は未公表ながら、急性硬膜
下血腫などと報道された。
急性硬膜下血腫は、厳密には病気ではなく、頭部の強打により脳挫傷が起き、脳
から出血して硬膜と脳の間に血液がたまり脳を圧迫するもので、死亡率 はきわ
めて高い。
いずれにしても転倒・転落などの事故があったことになる。
幸いにも同年8月に意識を回復。
翌1989年(昭和64年/平成元年)初めにあった昭和天
皇の死去と今上天皇の即位に伴う一連の行事は欠席。
**時系列(一部伏見様の過去記事も含む)**
1984(昭和59年)年、9月にコルマールで、12月にメリベルで、徳仁と雅子が密会
1984年、小和田恒、外務省条約局長
池田勇人や大平正芳が率いた【宏池会】の名付け親である右翼・安岡正篤の弟子
でもあり、安岡が主宰する「而学会」に、義理のいとこ・江藤淳らとと もに参加していた
1980年代後半、堤義明、バブル景気真っ只中、米国の経済誌『フォーブス』に
「世界一の大富豪」(The World's Billionaires)として取り上げられ、その保有総資産額は3兆円と報じられる。
父親・堤康次郎は【宏池会】に属していた。
1986年 4月29日 昭和天皇在位60周年記念式典に何故か美智子は欠席
1987年(昭和62年、)昭和天皇が最初にお倒れになる
1987年、徳仁と雅子の密会がj頻繁に
1987年 小和田恒 外務大臣官房長、
1988年(昭和63年)1月1日、桂宮親王、昭和天皇から「桂宮」の称号を与えらた。
1988年2月20日、桂の宮家創設の祝宴を開いた。
1988年4月、徳川侍従長更迭・・・・美智子の指示、実行は明仁皇太子
(徳川侍従長は、先帝様に52年仕えた方で華族出身)
1988年5月26日、桂宮様ご発病(暗殺未遂?)
1988年6月、富田宮内庁長官更迭・・・・美智子の指示、実行したのは明仁皇太子
(富田長官は、小和田雅子御妃候補絶対反対派)
1988年 小和田恒 OECD政府代表部大使
(創価学会からの要請に応じて、池田大作名誉会長らの外国訪問旅行に便宜供与を図ったとして、国会で追及されている)
1988年(昭和63年)9月19日、昭和天皇吐血
1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇お隠れになる
とっても臭いますね。邪魔者は消せですか。
この堤、小和田、エタ頭、創価&政界、皇室と皆繋がってしまいますね。
もっと調べれば、出せない名前の人が沢山おり、怖くてこの先に行けないです。
*** 美智子さん、あなた誰? ***
(昭和34年内閣委員会議事録より)
【国会も何ら御結婚について知らされておりません。】
皇室会議が開かれたのは(昭和34年)十一月二十七日でございますが、その前
★十一月二十四日に、宮内庁は公電をもって【館林=正田本家、正田醤油】に通知しております。
皇太子妃決定は公式発表の十日前、つまり十一月十七日のニューズウイークが最初に配信した。
皇太子妃決定に関して小泉信三・田島前長官などが先頭に立ち、総理大臣はその
報告を受けるだけで、なんら疑問をさしはさむ余地がなかった。
それでも「信仰」の問題は気になった。(岸信介元総理大臣)
国民も国会も何も知らされておらず、しかも皇室会議が一度だけ開かれたのみ。
結局皇室会議を一度開きまして、決定をやったのは既成事実をただ承認しただけ、椎熊前副議長などに聞きますと、
その日に正田家の家系その他いろい ろ書類を渡されて、それにただ無言で賛成しただけだというふうにも聞いておるのであります。
要するに、「正田美智子さん」という人について、実は国民も総理大臣も、どんな出自の人でどんな考えを持ち、どんな性格なのかという事を全く知ら されて
いなかったんですよ。
美智子さん、毎回お顔とお耳、大根足の形や身長にたいする長さが違いますけど?
≪補足≫当時の岸信介総理(安倍総理のおじい様)は、2年間の在任中に現在の日本の安全保障体制の基礎となる、「日米安保条約改定」を行った。
吉田茂首相が結んだ「旧日米安保」よりも、格段に日本が有利になる軍事同盟なのに、左翼や全学連の抵抗に遭い苦労された。
巷では「初の平民による皇太子の御妃決定か?」で湧いていたが、超忙しくそれどころではなかったでしょう。
皇室会議の席でいきなり、分厚い調査資料を「ボン」と渡されて、「見ろ」と言われても、東大法学部首席の岸総理ですら、書類の精査は不可能だったでしょう。
しかも、「美智子推薦派」のバックには、昭和、戦後の元勲と言われた、吉田茂元総理(クリスチャン)がいた。
保守合同で自由民主党が成立したとはいえ、岸先生率いる「岸派」は、人数的には吉田派(後に田中派と大平派に分かれる)より劣勢でした。
しかも、当時の吉田茂元首相は、自民党内で隠然たる影響力を持っており「キングメーカー」でした。実際、岸元総理退陣後は自分の子分の池田勇人を総理にしています。
岸先生としたら、不承不承ながらも「正田美智子入内」を飲まざるを得ない政治環境だったと思います。しかし、それでもさすが岸先生で「キモ」だけはちゃんとチェックしています。
岸総理「お~い、正田美智子嬢は洗礼を受けているのか?」「いえ、受けていません」小泉信三か宮内庁長官の田島道治かは知りませんが、既にここで、大嘘を答えています。
多忙な岸総理としては、その言葉を信じるしかありませんでした。
下手にここで「ちゃぶ台返し」をすれば、党内で吉田派からどんな日米安保の嫌がらせを受けるかわかりません。
宮内庁長官の田島道治はもろにGHQの押しで宮内庁長官になった人です。
「入江相政日記」では、昭和天皇のすぐ下の弟君で戦後亡くなられた秩父宮殿下の葬儀で、昭和帝の葬儀参列を妨害した男です。
しかし、その田島でさえ、正田美智子の母方の佐賀、副島家の家系調査は不十分で疑惑が多いと正直に記録しています。
歴史の「大いなる皮肉」と言えるでしょう。
もう読者の皆様は既にお分かりのように、アメリカ、GHQ、クリスチャン勢力の綿密に打ち合わせした陰謀で
「最初に正田美智子妃決定ありき」の「プロレス」の小泉らの家系調査だったのです。
慶応塾長だった小泉の「正田家家計調査」が如何にいい加減な虚構だったかは、昨年拙ブログで検証したばかりです。
私はOBとして恥ずかしい、「慶應に二人の【馬鹿小泉】あり、一人は元塾長の小泉信三、もう一人は朝鮮人で横須賀が地盤の小泉ちょん一郎です(笑)
確かに先の大戦で小泉信三は、一人息子を失いました。しかし、「軍人にとって戦死することは名誉」です。
それを逆恨みして、「穢多と朝鮮の混血女」を皇室に潜り込ませ、「長期的な皇室破壊」を狙うとは、何たる卑しい精神でしょうか?
東条首相は戦時中確かに酷なことはしました。慶應出身で三菱財閥の総帥の池田成彬が東条に「反戦」を呼びかけると
池田の息子をわざわざ、最前線に回して、結果的に戦死させています。
しかし、戦後、池田が「反天皇主義者」になったという話は聞きません。
東条首相は、戦後「茶番」の東京裁判で首席検事のキーナンと司法取引をして、
自分が罪を全部被る代わりに、「昭和天皇の不起訴」を認めさせて、刑場の露として消えました。
★最後に「美智子入内」は岸元総理の責任ではありませんが、これも、何かのご縁でしょうから、
安倍総理の手で「自称皇后美智子」に最終的な引導を渡してほしいと思います。
*写真は、強い疑念を抱きながらも、しぶしぶ入内OKを出した岸信介元総理
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